2018年2月20日

中国とインドそして日本

中国とインドそして日本

 

 

  園長の竹田です。しばらく書いていないうちに年が変わってしまいました。遅くなりましたが、本年もどうぞよろしくお願いします。12月に中国、1月にインドに行ってきました。旅の間に考えたことについて、書いておきます。

 

 

 中国は上海で、私の元学生で華中師範大学の教員になった何祝清君のところに、アメリカなどで採ったツヅレサセコオロギの標本を届け、セミナーをしてきました。最近新聞にも出ていた通り、中国の科学界の充実度には目を見張ります。新しい校舎がどんどんできて、しかも中国の大学は学生数も半端ではなく、序列をつけて予算がどんどんつけられています。私たちが学生の頃は、アメリカの大学でも若手の実働部隊として、日本の若手がある程度重要な部分を担っていましたが、いまは中国からの学生がどこの研究室にも大勢いて、研究の大事な部分を担っています。日本の学生はあまり外国に行きたがりません。ある時、親しい中国の研究者に、「こうしてどんどん大陸からアメリカに来て多くは定着していくが、国のタレントが失われていくことに問題はないのか」と聞いたところ、「今、万の単位でアメリカで若手が働いているが、そのうちの千の単位でも中国に戻れば、それでペイオフできる」という鷹揚な回答でした。今そのように米留からの還流者に研究費や施設をどんどんつけて、よい論文がたくさん書かれるようになってきました。

 

  科学の世界では、雑誌に投稿された学術論文は同じ分野の科学者のところに回って、それについて個々の査読者が掲載に値するものかどうかの判定をくだすピア・レビューという形式をとっており、私ところにも投稿されたものが1月に2-3編回ってきますが、かなりの割合で中国の著者によるものが占め、良い論文が多くなってきました。最近の新聞も、科学論文の量も質も中国がアメリカを抑えて1位になったと伝えていました。日本は下降線です。大学の予算も毎年減っています。奨学金が返せなくて自己破産するケースも増えています。多くの国では大学授業料はただで、場合によっては給料がもらえます。

 

 前回中国を訪問したのは広州でした。人口が4千万あるだけあって大学もたくさんあり、古いキャンパスにある大学が、新しいところで相互乗り入れをするコンソーシアムを形成し、制度や資源をシェアするという形ができていて、日本より進んだシステムが動いていました。各大学は立派な教員用宿泊・集会施設をもっていて、上海のこの大学もワンフロア22部屋11階建てで、食事付きで大きな部屋が用意されました。そういうものがあるから、大学で国際シンポジウムも簡単にできてしまいます。

 

 もうだいぶ前からになりますが、中国は中国政府留学生という制度を作って、何(カ)君をはじめ3名の留学生が私の研究室で博士をとりました。

 

 翻って、日本の学生はというと、中国語を話せる学生も少ないし、奨学金をもらって中国を含め外国で勉強する手段もありません。かなり負けています。文科省は日本からノーベル賞が出ると語りますが、ノーベル賞受賞者の多くが語るように、多くは貧しい時代に、しかし、自由な雰囲気の中での努力を結晶させたものです。日本では、アジアの人材交流や文化交流を妨げており、せっかくの人的・文化的資源をうまく利用するようなことになっていません。

 

 以前、ブリュッセルのEU本部に、エラスムス計画という教育制度について取材に行きました。今EUは若干混乱(ブレクシット等)している様子ですが、NATOや通貨の統一だけではなく、教育制度をとおしたヨーロッパ文化圏の形成の努力が一番素晴らしいと私は思います。旧東欧の崩壊とそれを抱き込んだヨーロッパ経済文化圏の構築のために、加盟国の壁を越えて若者に共通のヨーロッパ市民としての教育を施そうというシステムです。エラスムス計画は次のように考えます。(1)他のいくつかの経済文化圏との競争の中で、ヨーロッパの資産は何か?それは教育と文化水準だ。それを梃に他地域例えばアメリカ―カナダ(AC圏と仮に呼ぶ)や極東圏(日本―韓国、中国も?FE圏と仮に呼ぶ)に対し競争的優位に立つ。(2)ヨーロッパ圏を言語・文化的に統一し、テクノロジーの優越で、資源に勝るACや人材にまさるFE圏を凌ぐ。具体的にどうするかといえば、代表的なヨーロッパ言語を聞き話し書いて議論できる新しい市民を育てる。例えばブルガリアのソフィア大学の学生であれば出身校と受け入れ校にも経済的に支援をし(もちろん本人も)一学期は例えばウィーンで二学期はパリ等で勉強させ、同じシステムで卒業後もずっとサポートを続けるというものです。残念ながらFE圏には匹敵するものはありません。

 

 私は天安門事件の翌年から中国の奥地を訪れています。この間の中国の変化はものすごいものでした。その前の100年間にはもっと激しい出来事が続きました。一般庶民の生活は、パール・バックの「大地」によく描かれていますが、これはまだアメリカ人宣教師の娘の目によって描かれたものです。数年前にノーベル文学賞が与えられた莫言((モウウェン、言うなという意味)という作家の小説を読むと、もう少し中国民衆の目から見た中国近代史のありようが見えてきます。

 

 

 

 さて、今度はインドの旅行です。アッサム州のグワハティ(GU)というところで国際野蚕学会というのが行われ、シンポジウムをひとつまかされましたが、私は安い飛行機を手配したものですから、関西空港から香港に行き、そこからデリー、さらにボンベイ(今はムンバイ)に行き、最終的にカルカッタ(CCU)に大きく回って着きました。CCUではインド博物館(ガンダーラ美術がたくさんあった)、植物園、アジアで初めてノーベル賞が与えられたタゴールの住んでいた家、カーリ・テンプル、マザー・テレサの記念館、ラーマ・クリシュナの修業した寺院その他を尋ねました。汽車にも乗りましたが10ルピーと安いのはいいですが、女性は切符売り場から別の窓口になっていて、ずいぶん男尊女卑の社会だという印象を持ちました。男女差別だけでなく、その上にカースト制まで乗っかってくるのだから大変です。学会でも若い女性が発表した後、男性が手を挙げて明らかにハラスメントとも呼べる発言をしていました。女性の社会的地位の改善は、世界的に見ても実はそんなに早くから進んでいたわけではありませんが(スイスで婦人参政権が認められたのが1991年です)、それでも世界中で着実にすすめられてきました。私が、アメリカに行ったのは1995年でサイゴン陥落が4月にあった年です。戦争の後の、しかも敗戦の後のアメリカで、力強い運動を見せていたのは女性の権利拡大のための運動、Equal Right Amendmentというもので、憲法の修正に各州で男女同権法案を批准していくための運動でした。最終的には2/3に達せず憲法修正には至りませんでしたが、これはアメリカ社会を変えました。私も日本に帰って大学に勤めはじめたころには、よくできる女学生が修士課程に進むことはまれでしたが、今は普通です。だから世界は明らかに変わる!

 

 今回の学会の参加者の中に三田和英さんがいました。三田さんは、つくばでカイコのゲノムプロジェクトを完成した人ですが、定年になった後つくばで職は用意されずにハイデラバードに1年往き、今は五年計画で重慶に移り、ここでも非常に重要な仕事を完結されました。ハスモンヨトウという農薬耐性を進化させて化け物のようにしぶとい害虫になったもののゲノムを解読したのです。非常に重要な仕事がここから今後、展開されるでしょう。日本がこのような才能の受け皿になっていないのは本当に残念なことです。

 

 アッサムからミャンマーにかけてはインドでも日本人に似た人や、言葉もあって、奇説として日本語ドラヴィタ語起源説というのもあるくらいですが、そこをねらってタイからビルマをぬけてインパールまでの鉄道敷設をするのが、インパール作戦でした。飢餓と病でたくさんの人々が亡くなり、最悪の戦線でした。アッサムまでは遠いようで実は、思い出したくないような過去があったのです。アッサムから東北へ行くと、モンゴロイド系の人々の住む地域で、アルナーチャル・プラシッド州は、中国雲南省とつながっていますし、インパールのあるマニプール州、ナガランド、ミゾラム州など小さい少数民族の住む地域は、現在紛争中で、マオイストの武装闘争で夜間外出が禁止になっています。会議の時にアッサムの民族舞踊が披露されましたが、フィリピンのバンブー・ダンスとよく似たものが紹介されていました。ある意味アジアのコア地域と呼べなくはない処です。

 

 ガンジス川(母なるガンガー)は、西から流れてくる支流と、ヒマラヤの北を西から東に行く(中国ではヤルツァンポと呼ばれる)ものが雲南をへてまた西南に下り、プルナプトラと呼ばれる大きな川となり、合流しカルカッタおよびバングラのほうへ降りていきます。

 

 

 

 インドも中国も広大な領土と多様な文化、多様な民族を擁する国です。これまでのところ両国はかなり違う方向に向かって進んでおり、将来的な変化も独特のものになるでしょう。しかし、いずれにせよ、数十年のレベルで両国が世界的な地位を高め世界の政治経済動向に重要な影響を持ってくることは間違いがないと考えられます。

 

 その時のために日本の未来を担う若者をそだてる教育に対する投資をしなければいけません。世界的に見て日本の大学ランキングは毎年下がり続けています。学費は上がり続け、簡単に大学にやれないし、子供も作れなくなっています。子供たちが次の世代を担って世界を相手として、日本とアジアの立ち位置についてもよく理解したうえで、日本の強みを発揮していける方策を探っていけるようなシステムを作っていけるよう、努力しなければならないでしょう。

 

 グローバリゼーションというのは流通をよくして経済を活性化するということでしょうが、経済的な発展だけでは生活の質が犠牲になる可能性があります。地球の生態系や、文化や芸術、人としてのたしなみ、社会的礼儀や新しい命のはぐくみ、介護やその他の生活支援など、人として豊かな生活が送れるような配慮が必要です。

 

 

 

 インドにはいろんな顔の人々が住んでおり、お前はどこから来たかと問われることが多いのですが、日本だというと、にこっとする人が多いということに気づきます。一定の好感を示してくれるのです。確かに、戦後日本人は実に一生懸命働いたのは事実です。しかし戦後、日本はともかく戦争にかかわってこなかった点が一番大きかった。ファンドがないから、今回の学会では、一番安い宿に入れてくれと書いたら大学のゲストハウスに入れてくれました。この施設でケニアの研究者と食堂でよく話しました。戦後と池田内閣の所得倍増計画の時の2回、日本経済は好況にみまわれます。2回のオイルショックやリーマンショックのあとも何とかしのぎました。この間、産業構造も変わって、農村社会が劇的な変化をしました。そしていま食料自給率は20%くらいになっています。自給率40%を切ると国家の存続が危うくなるといわれ、ローマ帝国が滅んだ時が40%です。過疎化がおこり、晩婚化が進みました。その結果、出生率が低い時代に入り(1.3%ショック)、人口構成が大きく老齢化し、人口の急激な収縮の時代にはいりました。好況下で賃金は下降、若者に未来が見えないという状況です。

 

 インドにはヒンズー、イスラム、シーク、ジャイナ、仏教、キリスト教、バハイやゾロアスターなど様々な宗教があり言語も50を超え(文盲率も高い)、貧富の差にカースト制の壁、ものすごい排気ガス、聖俗のあらゆるものがある社会です。人を愛し、平和を進めることが宗教の一つの機能なはずですが、かえって紛争をあおっています。偉大なるマハトマ・ガンジーの声がインドですら遠くなっています。人類はこの偉大なる魂を生んだ、がまたこれを捨てようともします。大いなるガンガー(ガンジス川)が右に左に蛇行するように、然し、そうしながらこの河がそれでも南に下り、そこに平和の海が待っていることを、小さな浮草のような存在として私は祈ります。