2018年11月1日

10月のお話 その1

 

  9月25日から10月5日までアメリカに行ってきました。

 

 

 戦後東京から発生したアメリカシロヒトリという害虫は、進駐米軍の貨物とともに持ち込まれて、全国に広がったものです。人間の経済活動が活発になり、物流の規模が大きくなると、それに隠れていろいろな病気や害虫が侵入してきて、それらは土着の天敵がいないので、侵入地で爆発的に増えることがしばしば起こります。

 

 アメリカシロヒトリは そのような害虫で、戦後日本と東ヨーロッパにもちこまれ、日本のものは朝鮮半島を上って中国は遼寧省に侵入しました。それから日本では東京から秋田県まで、そして西は熊本県まで広がり、さらに青森から函館に広がっていく形勢ですが、中国では北へ吉林省、黒竜江省に、南は江蘇省に広がってきています。東欧のものはリトアニアからトルコ、グルジア、アゼルバイジャン、カザフスタンを経てイランに入ってきました。西はイタリアです。日本ではこの害虫の研究が、研究者たちの自主的な研究会の活動によって、こうした侵入害虫の定着と土着化のモデルケースとして、多くの重要な成果をあげてきました。

 

 この研究会の活動は 中公新書のアメリカシロヒトリという本に書かれています。私はこの研究会の活動の一番最終期にここで研究発表をしましたが、それからアメリカの大学で勉強に行った時にそこでこの本に書かれていた、もう一つのアメリカシロヒトリを沢山目にする機会がありました。そこにいなければわからないことがいっぱいあるのですが、そのチャンスが天から降ってきたのです。日本のアメリカシロヒトリの幼虫は、頭の殻が真っ黒ですね。アメリカの東海岸から中西部にはもう一つ頭の殻がオレンジ色をしたものがいて、これはたくさん目につき簡単に取れました。私の先生は昆虫を実験室で簡単に育てるための人工飼料を研究してきた人で、比較的多数の昆虫を飼える餌のレシピを完成させていました。しめた、と私はその場所で、黒頭のものと赤頭のものがどういう風に生活しているか、観察しがてら両者の幼虫をいろいろな環境条件で飼育し、どのように生活史が制御されているかを調べました。黒は桑や柿について、赤はクルミや、ペカン、ヒッコリーなどで見つかります。黒は弱々しい巣を作り、その代わり1年2回出てきます。その初夏の世代と秋の世代の間に、赤が1世代出てきて、両者の成虫は同時に野外では見られません。このように両者は遺伝的に隔離されている、つまり別種であると見当がつきます。

 

 分布も独特です。黒がアメリカの東海岸、赤はそこにもいますが西海岸にまで広がっています。どうしてこの2種が分化したのかというところを説明しなければなりません。異なった生活史を調節しているのは日長反応です。では、日長はどのようにして読まれているか?それは時計が存在するからです。この時計は一日のうちのいつという時間を測る時計と同じかということを探る手段があります。昨年ノーベル賞が与えられた3人の科学者は、その時計の根幹にある遺伝子の構造と機能を明らかにしました。その方法は、遺伝子の機能をノックアウトした時に、それが支配している現象が崩壊することによって、因果関係が確認されます。これをRNA干渉といいますが、比較的簡単にできるようになっています。それをやってみました。periodと呼ばれる遺伝子をノックアウトすると、日長を測る機能が崩壊します。それで、赤と黒のperiod遺伝子の塩基配列を比べてみました。そうすると赤は赤にユニークな配列を黒は黒にユニークな配列が、どこの集団を取ってきてもあることが分かりました。両者は交雑していないということを意味します。逆に交雑できない処に機能的な変異が入ると、それによって種そのものが分かれてしまう可能性があるというのがポイントです。種の分化の機構は、もともと1つの集団が地理的な隔離の結果、別の遺伝子組成になってしまい、元の仲間と交雑できなくなった結果起こると、進化生物学の教科書には書いてあります。地理的隔離というのは非常に大事なメカニズムになっていると教えます。このアメリカシロヒトリの種分化は全く新しい形の種分化で、地理的隔離ではなく、時間的隔離の結果、起こったということを示します。

 

 これを実証するために各地のアメリカシロヒトリの個体群(集団)を採りに行ってきました。研究費がないので安い時期を見計らって出かけます。関空(KIX)からサンフランシスコ(SFO)それからオレゴン州のポートランド(PLD)にとびました。そこでレンタカーを借ります。この辺は大体どこに行けばいるかというのは、わかっていますので、PLDから南下し、Albernyというところまで行きました。本当はもう2時間前に動きだせたのですが、KIXからとぶUnited Airlines1時間遅れで出発したためPLDへの乗り継ぎが出来ず、次の飛行機になってしまいました。それで、遅れたのです。

 

 最初に目指したのはKlamath Fallsという町でレイチェル・カーソンがそのあたりの湖の殺虫剤による汚染の話を書いたその舞台です。これまで3回行って大収穫があった場所で、まずそこで戦果を期待したわけです。この初動の遅れが後になって響いてきます。Klamath Lakeはいくつかに分かれていて、遅れた分夕闇がやってきて肝心な場所を見つけることが出来ませんでした。もう一晩泊まっていくか、次に行くか迷った結果、Klamathをあきらめ、北上することにしました。一生懸命走るのですがアメリカはともかく広い。次はユージーンの南で泊まり、翌日PLDからColunmbia River Gorge(大地の裂け目をgorgeといいます)に沿って東進するI-84というインターステイトハイウェイを走りました。ここを行くと私の大学時代の友人Johnがいるワシントン州プルマンへの途中、ボードマンというところで、彼がやっているハイブリッドポプラのプランテーションでアメリカシロヒトリを確保してもらっているので、昼過ぎにつくと連絡しましたが、初動の遅れがボディブローとなって、結局プランテーションに到達したのは2時過ぎで、プランテーションが目の前に見えているところで、車が砂の上に乗り上げてしまいました。砂と格闘して降参してからオフィスに電話したところ、Johnの学生Andyはたった今帰ったところという電話メッセージが残っていましたが連絡はもう取れません。さあ、えらいこった。金曜の午後はTGIFとよばれ、学生も働いている人も早めに帰ってビールでも飲んで騒ぐ時間。はるか遠くにトラクターは動いているが歩いていくには遠すぎる。それでも歩いて救助を捜しましたが、歩いているうちに無情の時間は流れ、砂地に動かせない車とともに置き去りになりました。まるで昔見たドイツ映画「目には目を」です。こんな人のいない処ではWiFiもつながらない。本当にどうするんだこれはと自問しましたが、何とかJohnにつながり、そこからAndyが大きなトラックで助けに来てくれました。因みにTGIFというのはThanks God, it’s Fridayの頭をとったものです。

 

 さて、それからPullmanまでの道も長い。PullmanWashington州の東南にあります。実はそんなところまでMississippiの支流Missouri川が流れてきているのです。西部開拓の最初の道はMissouriをたどりながらLouisClarkという兄弟が来てそこに街を作りました。I-84から北上すると、twin cityがあってそれを構成するRidgelandという町には原爆を校章にする有名なRidgeland High Schoolがありますが、此処を経由してLouisvilleそして隣のClarksvilleを通り、Pullmanへと入る道はもうとっぷりと日暮れ時を回ってしまっていました。Johnは定年後よくアラスカに行って、1mをはるかに超えるKing SalmonHolibutというこれも巨大で奇妙な魚をぶら下げた写真を送ってきていました。こっちについたらバーべキューだといっていましたので、僕はHolibutをトライするんだといっていましたが、あと少しのところであせって60マイルのところを88マイル出したら(それまで70のところでも80くらいで走っていたのにその瞬間だけ88)たちまちハイウェイパトロールが付けてきて、顔を強烈な投光器で照らされ、罰金です。直免停で収監されるかと思いましたが、それはありませんでした。Sorry, I just got released from the police.Johnに告げると、「今日はおかしな日だ。友達がオレゴンで砂に埋まったと思ったら、2度目は釈放されたばっかりだという報をもらうなんて・・・」ともかくその日の目的地にはたどり着けました。なんという日だというのは私のセリフであったのですが。

 

 子供の時に私が抱っこしたMelissaという女の子は、今俳優になってNew York CityShakespear劇をやったりしているそうです。その日は、久しぶりにMelissaを訪問。次の日は大学で虫の処理をし、夜は大きな魚を食べ、庭に設営されている温泉で熱燗を飲み、その翌日にJohn及び奧さんのRuthとわかれPLDに向かいました。Columbia River Gorgeでアメリカシロヒトリの巣がたくさんかかっていたので、手ごろな高さのものを採ろうと藪にはいっていくと、そこはジャケツイバラのような、とげとげのベリーの枝に囲まれ、にっちもさっちもできなくなってしまい、とうとうそこで転倒し、頭下、足の下には倒木、体中に棘がささってくる状況で起き上がれず、死ぬかと思いました。こんなところでひっくり返っていたらグリズリーが来るかもしれない。上のハイウェイは車は通るが、下まで覗きに来るものはないだろう。えらいことになったなこれは、と一時辞世の句でも読もうかという状況になったのですが、ジリッツジリと少しずつ少しずつ態勢を立て直し、ついに生還することが出来ました。

 

 さて次は、チェコの時の友達の娘(Martinaという名前。テニスのチャンピオンがいましたね)がPLDにいるので寄るよといってありました。急いでPLDに着いた時はもう車を返す時間が迫っていたので、ちょっとお宅によっている時間はないと説明したら、空港に行くから待ってろといわれ、拾ってもらって彼女の家族と一緒にPLDとお宅(大きなお宅だった)を案内してもらって、深夜過ぎのシカゴ往きの飛行機に乗り、朝まで待ってアトランタ往きに乗り、朝の10時ころアトランタからフロリダに向かいました。

 

 この続きは、また今度。