2020年5月12日

新しい学期のはじめにー

新しい学期のはじめにー           竹田真木生

 

 

  新しい学期が始まっていますが、新型コロナウィルスによる病気の広がりで、いたるところが閉鎖になって、いやな始まりです。しかし、世の中というものは、うまくいっているときばかりではない。時には、地震、台風、洪水、気候変動で農産物が不作になったり、リーマン・ショックのような経済的な理由で職がなくなったり、戦争もこれまでに何回もやってきました。こういう時は、今何が起こっているのか、それはなぜそうなったのかということ、新しい世界がどのように実現されて行けばよいのかということについて、動揺しないで、よく考える機会にすることが重要です。

 

  2冊の本について触れます。1つは、アルビン・トフラーというアメリカのジャーナリストが1980年に発表した、つまり40年も前の古い本、「第3の波」で、もう一つはイスラエルのハラリという人の書いた、「ホモ・デウス」です。こちらは最近出たものです。内容はだいぶん違うのですが、2冊とも主張は、今、これまでになかった新しい世界がやってきているのだということです。

 

  人類が進化したのは、地球の歴史から見ると、ほんの僅かな期間のうちのことだ。地球の乾燥化に従って広がった、サバンナに森の住民であった我々の祖先であった霊長類が進出していった。その時、直立歩行が始まり、両手が解放され、抑えつけられていた喉が解放され、言語が発達し、群れて大型動物を狩る生活によって、道具と火を使う新しいタイプの哺乳類が出来た。やがてその先祖はアフリカを出て地続きの中東、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、そして中国、シベリアを経てアメリカ大陸に渡った。この時、新天地に生息していた大型動物の家畜化と、栽培植物の育種と定着型農業が、その後の文明の方向を決めたと、地理学者であるジャレッド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」はのべます。大きくて、つまり生物多様性が豊かだということと、横の長いユーラシア大陸の形がたまたま新文明の成立と地理的拡大にとって重要な、生物ストックの改良と技術の地理的な移転に貢献したのだと説きます。トフラーのほうは、これまでの文明の歴史には2つの大きな転換点すなわち波があったのだといいます。すなわち第一の波は、狩猟・漁労による生活から、メソポタミア地方のデルタに小麦の栽培による定着文明が成立したこと、これが第一の波であった。ジャン・ジャック・ルソーも同様に、人類は2つの技術革新のエポックを経た、即ち農耕と冶金であると書いています。ルソーはフランス革命に先だつ人ですから勃興するブルジョワジーの様子は見ていたはずですが、バーミンガムの産業革命と蒸気機関による、化石エネルギーの解放による生産力の爆発的発展、社会制度の変化については想像もできなかったに違いありません。これをトフラーは第2の波と呼びます。第1の波による人口の集中化では、エネルギーは循環型で、社会は家族単位で回っており、その生産体制に依存して人口の伸びも抑制されていた。第2の波の社会は、分業と生産の社会化・分業・集中化、化石燃料の非可逆的な利用によって立った結果、決まった時間に生産が動きだすこと、熟練した均質な労働者の育成のために学校制度など現在、私たちが寄って立っている社会制度の多くが確立された。メートル法や、時計というものが発明された。これは、資本主義の国においても社会主義の国においても同じ原理で、産業化が、人々の生活を豊かにすると考える点で共通する。しかし、250年の月日がたって今その社会制度は崩壊の瀬戸際にあるとトフラーは言います。第2の波では、訓練された労働者の軍隊的な生産管理が重要で、それを支えるために核家族が単位となり、女性は、家事労働に専念することが前提条件となってきた。ソビエトという国が崩壊した後は、アメリカ流の資本主義制度が地球のすべての国で爆走するかと予想されたものの、この第2の波は、人々の幸福と権利、地球レベルでの資源の限界、通勤地獄、環境汚染、官僚主義、貧富の差、失業、過疎と人口の大都市集中、ドラッグ、ジェンダー、南北問題といった根本的な問題で揺らいでいる。今回のパンデミックもそこに入るでしょう。来るべきものが来たということなのでしょう。経済的な理由で、病床を減らしてはいけなかった。大学への予算を削ってはいけなかった。日本の様々な社会的な統計もあまり良い数字が表れていません。女性の社会的地位も、OECD加盟国中ほぼ最低ですし、人口の急減では2100年時の予想値は、中程度の楽観的な予想ですら6000万人に、悲観的な予想では4000万人台となり、これは日本経済が回復不能の数字です。そこに、新しい第3の波がやってきているというのです。その波の特徴は、集中化、核家族化、オートメーション、化石燃料の利用、ではなく、分散的な、小さなコミュニティで、裁量労働制で、職の流動性の高い、情報がよく公開された、自分の喜びのための労働時間と社会的な生産の程よい比率をもった関係に立った、社会的平等と開かれた社会。そういうものが求められ、その兆しが始まっているというのです。古い本ながら世界の趨勢は見事に予想されています。東京一極集中の弊害は長い間警告されていたが、何も改善されなかった。原発もドイツのように国民の決意として廃止されなかった。教育に対する投資もヨーロッパなどに比べて低水準です。

 

  さてハラリの本のタイトルはホモ、これはヒトです。デウスは神です。つまり人間の社会が情報革命によって、全く新しくなって制御が聞かなくなる可能性についての警告の書です。IT技術の独占によって、ゼロ・サム・ゲームが、社会を支配するというのです。半分、ホラー・ストーリーですが「x-マキーナ」という映画が少し前に公開されました。人間が作ったロボットが、制作者によって好き勝手に使われていたのが、その制作者に反抗して殺してしまうという物語です。本と映画は何の関係もないのですが、そのような予想外の展開が近い将来、起こりかねないという警告は同じです。情報化によってプライバシーはどんどん制限を受け、それによって世論が操作されたり、誘導されたりする世の中がやってきたとしたら、ゆゆしいことです。人間というのは不安になるととんでもない方向に走るのはこれまで、歴史の繰り返すところです。良心というものが、簡単に揺らいでしまう可能性はいたるところに見られました。世界中の人々が、平和を求めているにもかかわらず、ものすごい殺戮行為が繰り返されてきました。私たちの社会が、これからどうあるべきか、何を子供たちに伝え、人間として何を守っていったらよいか、最悪の事態を予想しながら、未来のプランを書いていかなければなりません。今回のパンデミックで、普通の市民である私たちそれぞれが、いつ、弱者に転換するか知れないという恐ろしさを知りました。老人、特定の病気を抱える人々、非正規労働者、外国人、芸術家、様々なハンディキャップを抱かえる人々、単に男性であるということだけでも、リスクファクターになりうるのです。こうしたリスクの襲来に備えて、人々に優しい社会をどう構築してゆくか、人にやさしい社会とは何かを子どもたちにどう教えていくかが問われます。

 

  宮沢賢治が「農民講話」という作品の中に書いている言葉を送ります。だいぶん前の記憶で、細かいところは違っているかもしれませんが。「嗚呼、たれか来て私にいへ。億の巨匠が並んで生まれ、相侵さない、そういう世の中が必ず来ると。」教育は生存競争を勝ち抜く技術ではありません。私たちそれぞれが、一緒に暮らす人々、社会、自然環境とともに手を携えて豊かに生活するための知識を得ていくのが目的です。私たちの世代の責任において、子供たちに私たちの努力を伝えましょう。